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Bluemonday 4eme Dan
Inscrit le: 23 Mar 2004 Messages: 394 Points: 10765 Pays, Ville: Nishinomiya, Hyogo, Japan
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Posté le: 04 Oct 2004 13:32 Sujet du message: 東京日仏学院(Institut franco-japonais à Tokyo)の10月の催し。
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またまた、東京日仏学院からの案内メールが届きましたので、皆様に今月の催し物をお知らせします。
特集:フランス映画とは何か?
特集:フランス映画とは何か?
プログラム企画:ドミニック・パイーニ
元シネマテーク・フランセーズ館長、現在、ポンピドゥー・センターで文化部のディレクターを務めるドミニック・パイーニは、映画についての豊かな知識のもと、つねに独創的なプログラムを提案してきました。今回ご紹介するプログラムは、同氏が約3年前に、ベルギーのブリュッセル王立シネマテークの依頼で企画したものの一部です。フランス映画の中の2本、あるいは3本を並べ、それらの間にある同時代的類似性、あるいは時代を越えた継承、影響関係、スタイル、テーマにおける出会いについて考察します。既存のカテゴリーや、関係性、映画史から解き放ち、異なる視線で作品と向かい合ってみることで、「フランス映画」の新たな見取り図が見えてくるでしょう。
協力:フランス外務省、ユニフランス、ビターズ・エンド、セテラ・インターナショナル、コンパニ・メディテラニエン・ドゥ・フィルム、フィリップ・ガレル、ゴーモン、フランス映画社、レ・グラン・クラシック、日本ヘラルド映画株式会社、東北新社、ユーロスペース、ザジ・フィルムズ
特集:フランス映画とは何か?
クレールの昼食:「草の上の昼食」、「クレールの膝」
『クレールの膝』での湖畔でのピクニックは、抑圧された感情や卑小なこと、フェティシスムや安っぽい支配力などを辛辣に露わにする。ルノワールの「各自に道理がある」(『ゲームの規則』)に対して、ロメールは、偶然を最終決断へと変えてしまう放縦な能力で応えるのだが、まさに言葉の力のみでそれを可能にしている。
ルノワールでは、草の上の昼食やピクニックが夕立で締めくくられるが、そのことがおそらくロメールの記憶にあったのだろう(『クレールの膝』の中の有名な雨のシークエンスを見てほしい。
雨によってブリアリがついにクレールの膝を触ることになるあのシークエンスを)。ロメールの汎神論が多少なりとも倒錯的な道徳主義や、田舎に対する都会人の不信感と矛盾しているとしても、気象学が感情や官能の急変と調和しているルノワール敵な場所とアクションの一貫性を、ロメールは忘れていない。
「草の上の昼食」
(1959年/92分/16ミリ→ヴィデオ/カラー)
監督:ジャン・ルノワール
出演:ポール・ムーリス、カトリーヌ・ルーヴェル、フェルナン・サルドゥー
9月11日(土)14時30分
9月12日(日)14時30分
@エスパス・イマージュ
会員:500円/一般:1000円→無料
お詫び:プリント未着により、ヴィデオによる差し換え上映を行った『草の上の昼食』についてですが、その後の調査で「借り入れ可能な」16ミリプリントは現存しないことが判明しました。つきましては、まことに残念ながら16ミリでの追加上映は中止とさせていただきます。なにとぞご了承下さい。
「クレールの膝」
(1970年/105分/35ミリ/カラー/日本語字幕付)
監督:エリック・ロメール
出演者:ジャン=クロード・ブリアリ、オーロラ・コルニュ、ファブリス・ルキーニ
9月11日(土)17時
9月12日(日)17時
@エスパス・イマージュ
会員:500円/一般:1000円
特集:フランス映画とは何か?
子供・ミーツ・ガール:「秘密の子供」、「ボーイ・ミーツ・ガール」
「勝手にしやがれ」、「秘密の子供」、「ボーイ・ミーツ・ガール」と並べることができるだろう。ゴダール、ガレル、カラックス。現代のフランス映画における、夢中にさせる、秘められたつながりだ。男の子がある女性に出会う。ストーリーのもとになる他にどんなシナリオを思い描けるというだろう?
ガレルの作品とカラックスの作品を結びつけているのは、その静寂さ(サイレンス映画に対する共通の憧憬)、コントラストの強い白黒の映像、今にも踊り出しそうな俳優たちの身体の動き、そして登場人物たちの情熱によって燃え尽きたような焦燥感、大胆に省略された説話法であり、一言で言えば、激しいまでの(強烈な)詩学によって彼らは結びついている。
「秘密の子供」
(1979年/1982年/95分/35ミリ/モノクロ/日本語字幕付)
監督:フィリップ・ガレル
出演:アンヌ・ヴィアゼムスキー、アンリ・ド・モブラン
9月18日(土)14時30分
9月19日(日)14時30分
@エスパス・イマージュ
会員:500円/一般:1000円
「ボーイ・ミーツ・ガール」
(1984年/100分/35ミリ/モノクロ/日本語字幕付)
監督:レオス・カラックス
出演:ドニ・ラヴァン、ミレーユ・ペリエ
9月18日(土)17時
9月19日(日)17時
@エスパス・イマージュ
会員:500円/一般:1000円
特集:フランス映画とは何か?
アンジェルとトニの葦:「野生の葦」、「アンジェル」、「トニ」
「トニ」と「アンジェル」は、南仏プロヴァンスのリアリズムという、フランス特有のジャンルの対をなす2本の作品である。嫉妬による激情、性、労働、地方のアイデンティティー、30年代のふたりの主要な映画作家によって一緒に織り上げられたテーマ。彼らは同じ世界について語っているが、多くのフランス映画の原型となる特徴を喚起させる説話法によって語っている。
90年代にテシネが描いたのは同じ南仏ではない(「野性の葦」の舞台は南西部である)。しかし(ルノワールの)リアリズムと(パニョルの)ピクチャレスクの両方に挑戦しながら、それらを対立させることない。「フランスの思い出」の監督テシネも、同様に、情熱、セクシュアリティー、労働、地方のアイデンティティーを描いているのだが、20世紀の別の時代(62年初夏、アルジェリア独立戦争末期)においてすべてはより混乱している。テシネが60年代に「野性の葦」の時代を設定しているとしても、この作品は、愛することや、愛の営みをすること、労働すること、風景の中にとけ込むこと、あるいはそこから浮かび上がることについて、何もかもがかつてと同じようには相反することがない20世紀末の作品であるだろう。
「野性の葦」
(1994年/110分/35ミリ/カラー/日本語字幕付)
監督:アンドレ・テシネ
出演:エロディ・ブシェーズ、ゲール・モレル、ステファン・リドー、ジャック・ノロ
9月24日(金)19時
9月26日(日)14時30分
@エスパス・イマージュ
会員:500円/一般:1000円
「アンジェル」
(1934年/133分/35ミリ/モノクロ/無字幕・日本語同通付)
監督:マルセル・パニョル
出演:フェルナンデル、オラーヌ・ドゥマジ、アンリ・プポン
9月25日(土)17時
@エスパス・イマージュ
会員:500円/一般:1000円
「トニ」
(1934年/85分/35ミリ/モノクロ/英語字幕付)
監督:ジャン・ルノワール
出演:シャルル・ブラヴェット、ジャニー・エリア、セリア・モンタルヴァン
9月25日(土)14時30分
9月26日(日)17時
@エスパス・イマージュ
会員:500円/一般:1000円
特集:フランス映画とは何か?
プレイヴィル:「プレイタイム」、「アルファヴィル」
レインコートを着て、ソフト帽をかぶったふたりのヒーロー、時間と未来を先取りしたような都会を旅する旅人であるユーロ氏とレミー・コーション。ふたりは、同じように、鋼鉄とコンクリートでできた迷宮の只中で茫然自失している。タチの薄暗い照明、ゴダールの半透明な暗さ、不条理の都と苦悩の都。ビュルレスク(滑稽物)と推理映画、映画のふたつの主要なジャンルがフランス風に再訪されている。タチはもはや我々を笑わすのではなく、不安にさせる。映画のために作られたセット、このうえなく豊かな音響、70ミリの圧倒的なフォーマットなどが「プレイタイム」にフランス映画の中でも類を見ないほど壮大な作風を与えている。それに反してゴダールは、ロボットのようなピン・アップガールや、コンピューターのアルファ60、ラング以後の世界の支配者(ハワード・ヴェルノン)によって我々を微笑ませる。
「プレイタイム」
(1967年/119分/35ミリ/カラー/日本語字幕付)
監督:ジャック・タチ
出演:ジャック・タチ、バルバラ・デネック、ジャクリーヌ・ル・コンテ
10月1日(金)19時
@エスパス・イマージュ
会員:500円/一般:1000円
「アルファヴィル」
(1965年/98分/35ミリ/モノクロ/日本語字幕付)
監督:ジャン=リュック・ゴダール
出演:エディ・コンスタンチーヌ、アンナ・カリーナ、ラズロ・サボ
10月2日(土)14時30分
@エスパス・イマージュ
会員:500円/一般:1000円
特集:フランス映画とは何か?
ジュ・テーム、そして言い争いして…:「ジュ・テーム、ジュ・テーム」、「そして僕は恋をする」
80年代以降登場した新しい映画作家の中でも、アルノー・デプエシャンは、未知の大陸、隠された地のようなものとして、精神=機械にもっとも執着している映画作家だろう。「魂を救え!」がそうした未知なるものの呼びかけとして不安を掻き立てる作品であるとすれば、「そして僕は恋をする」は、マリヴォダージュ(男女間の粋な会話、恋愛遊戯)が感情の転移のメカニズムへと逸脱していく作品である。「そして僕は恋をする」という気取ったタイトル(原題:僕は言い争いした…(僕の性生活))は、「勝手に逃げろ(人生)」がそれとは違う目的でそうだったように、意識の隠された、あるいは潜在的な段階を示唆している。しかしデプレシャンが想像し続けているのはゴダールはなく、レネである。レネこそが記憶の働き、無意志的記憶の仕掛け、思い出の連鎖というものに自分の作品を捧げてきた映画作家だからだ。
「ジュ・テーム、ジュ・テーム」
(1968年/91分/16ミリ/カラー/英語字幕付)
監督:アラン・レネ
出演:クロード・リシュ、オルガ・ジョルジュ=ピコ、アヌーク・フェルジャック
10月3日(日)14時30分
10月9日(土)14時30分
@エスパス・イマージュ
会員:500円/一般:1000円
「そして僕は恋をする」
(1996年/178分/35ミリ/カラー/日本語字幕付)
監督:アルノー・デプレシャン
出演:マチュー・アマルリック、エマニュエル・ドゥヴォス、ジャンヌ・バリバール
10月8日(金)19時
@エスパス・イマージュ
会員:500円/一般:1000円
特集:フランス映画とは何か?
ある女の心:「身体から心へ」、「ある女の愛」
グレミヨンとヴェキアリは、自分たちの生きた時代から同じようにずれていたという意味で、フランス映画の中に還元できない特異な存在である。グレミヨンは、詩的リアリズムの継承者であり、また現代的な映画作家でもある。「ある女の愛」でミシュリーヌ・プレール演じる登場人物は、ロッセリーニにおけるイングリド・バーグマンと同時代の登場人物といえる。彼女たちは、愛への献身と社会的、職業的独立との間で引き裂かれた女性だ。グレミヨンのスタイルの中には、ドゥルーズが戦後の現代映画について述べた「感覚運動的知能の遊離」のようなもの、つまりアクションの不在、心理的指標の消失がすでに存在している。ヴェキアリも同様に現代的映画作家であるが、あえて言えば、逆の形でそうである。ヴィキアリはパゾリーニとゴダール以降の映画作家であり、つまり自己分析的演出、劇的効果の幻想について批判的な意識を持った映画作家である。フランスの現実主義的で、詩的な古典主義とモデルニテの間の緊張によって、ヴェキアリは「フランス風」フィクションの中でも最も重要な映画作家である。
ミシェリーヌ・プレールは「ある女の愛」で医者であり、エレーヌ・シュルジェールは「身体から心へ」において薬剤師である。ニコラ・シルベールは、マッシモ・ギロッティの地中海的なエゴイスムと男性優位主義を想起される。
グレミヨン、ヴェキアリ、ふたりの映画作家はイデオロギー的なものと性的なものの両義性の巨匠である、同時に古典的でも、現代的でもある。
「身体から心へ」
(1979年/120分/35ミリ/カラー/無字幕)
監督:ポール・ヴェキアリ
出演:エレーヌ・シュルジェール、ニコラ・シルベール、マドゥレーヌ・ロバンソン
10月10日(日)14時30分
10月24日(日)14時30分
@エスパス・イマージュ
会員:500円/一般:1000円
「ある女の愛」
(1953年/80分/16ミリ/モノクロ/英語字幕付)
監督:ジャン・グレミオン
出演:ミシュリーヌ・プレール、マシッモ・ジロッチ、ギャビィ・モルレ
10月15日(金)19時
10月23日(土)14時30分
@エスパス・イマージュ
会員:500円/一般:1000円
特集:フランス映画とは何か?
イルマは我らのもの:「イルマ・ヴェップ」、「パリは我らのもの」
「イルマ・ヴェップ」は、オリヴィエ・アサイヤスという映画作家のキャリアの中で絶対的転換期となる作品であり、この作品までは、サイレント映画の造形性がこの映画作家にとって特別な悩みの種となったことはなかった。フランス的フィクションの起源への回帰を越えた、こうしたフイヤードへの再来は、アサイヤスのアンダーグランドな実験映画への新たな関心も伴っている。シリーズ物とフィルム素材へ手を加えることは、初期フィルム作品と実験映画を故意に結びつけようとした80年代の新しいシネフィルたちの時代の雰囲気を表しているだろう。ジャック・リヴェットは、それから30年前に、ヌーヴェルヴァーグの映画作家の中のでももっともフイヤード的な映画作家であった。13時間にも及ぶ「アウト・ワン」が「Tih Minh」や「吸血鬼」の流れと競合していたとしたら、処女作の「パリは我らのもの」はすでに、フイヤード作品のように、悲劇的高貴さと連続ドラマ的通俗性との間の微妙な対立を導入しながら、陰謀と都会の迷宮、古代悲劇によって構造化されたフィクションの試みであった。
※テキストはすべてドミニック・パイーニによって書かれた「フランス映画とは何か?」(「トラフィック 50号特別号」)からの抜粋です。より詳しい内容は、雑誌「nobody」15号に掲載予定。
「イルマ・ヴェップ」
(1996年/99分/35ミリ/カラー/日本語字幕付)
監督:オリヴィエ・アサイヤス
出演:マギー・チャン、ジャン=ピエール・レオ、ナタリー・リシャール
10月30日(土)14時30分
@エスパス・イマージュ
会員:500円/一般:1000円
「パリは我らのもの」
(1960年/135分/16ミリ/モノクロ/英語字幕付)
監督:ジャック・リヴェット
出演:ベティ・シュネデール、ジアニ・エスポジット、ジャン=クロード・ブリアリ
10月29日(金)19時
10月31日(日)14時30分
@エスパス・イマージュ
会員:500円/一般:1000円
ゴダールの夕べ 4:ゴダールと自叙伝/あるスイスの物語
10月4日(月)19時
@東京日仏学院エスパス・イマージュ
会員:500円/一般:1000円
戦闘的な作品や、ヴィデオ作品への挑戦、そして様々なヨーロッパのテレビ局のために作品を発表した後、ゴダールは『勝手に逃げろ/人生』で見事に商業映画へと回帰を果たす。「スター」(ジャック・デュトロン、イザベル・ユペール、ナタリー・バイ共演)の映画への回帰、しかしそれは映画作家ゴダールにとって、複数の意味で、新たな美学的方向性を示していた。ゴダールはこれ以降、ヴィデオで発見したことを自分の映画作品に盛り込んでいき、ストーリーはパリから遠くはなれた場所で展開し、田舎や森が特権化されるようになる。『勝手に逃げろ/人生』は、『パッション』、『カルメンという名の女』、『ゴダールのマリア』、『右側に気をつけろ』と続く、それからの驚異的な10年間のゴダール作品の序章を飾る作品である。
勝手に逃げろ/人生
出演:ジャック・デュトロン、イザベル・ユペール、ナタリー・バイ、ローランド・アムスタッツ
撮影:レナート・ベルタ
(1979年/98分/カラー/35ミリ/日本語字幕付き)
ライターのドゥニーズ(N・バイ)、その愛人のTVディレクター、ポール・ゴダール(J・デュトロン)、娼婦イザベル(I・ユペール)の三人の男女。スイスを舞台に『-1=勝手に逃げろ』『0=人生』という短い導入部に続き四章立てで、労働や、人間(男女)関係、家族制度、権力などについて、彼らのごく日常的な生活断辺のスケッチを通して語られる。『1章 想像界』では都会を捨て田舎暮らしを始めようとするドゥニーズの覚醒が、『2章不安』では家族とも冷めた関係に陥り、行き場のないポールの焦燥が、『3章 商売』では田舎を出て都会で売春をしようというイザベルが描かれ、『4章 音楽』において、この三者が合流し、それぞれ新たなベクトルを指し示す。
※上映前に、ステファン・サラザン氏の解説があります。
ジョルジュ・サンド関連上映
10月16日、17日に開催するジョルジュ・サンド生誕二百年記念シンポジウムにあわせ、ジョルジュ・サンド描いた映画作品を2本上映します。
青い旋律(ビデオ・タイトル:『ソフィー・マルソーの愛人日記』)
(1991年/132分/カラー/35ミリ/英語字幕付)
監督:アンジェイ・ズラウスキー
出演:ソフィー・マルソー、マリー=フランス・ピジェ、ヤヌーシュ・オレイニチャク、フェオドール・アトキン
1846年夏、デュドゥヴァン男爵夫人、別名ジョルジュ・サンドは、親しい友人たちとノアンにいた。重病のショパン、歌姫・ヴィアルド、ドラクロワ、ツルゲーネフ、デュマ・フィスといった錚々たる面々だ。ショパンの死期は近く、サンドの愛も過去のものとなっていた。一方、その娘ソランジュは、病弱なこの作曲家を深く崇拝すると同時に、華やかな母に妬みを抱いていた。ショパンに接近するソランジュ…ショパンの調べに乗せて描かれる愛と別れ。
10月16日(土)14時30分 @東京日仏学院 エスパス・イマージュ
入場無料(上映開始30分前より整理券を配布、15分前開場)
年下のひと
(1999年/135分/カラー/35ミリ/日本語字幕付)
監督:ディアーヌ・キュリス
出演:ジュリエット・ビノッシュ、ブノワ・マジメル、ステファノ・ディオジニ
1832年6月、パリ。とある朗読会で、サンドは批評家から激しく罵倒される。気丈に振る舞いながらも、動揺を隠せないサンド。その時彼女に話しかけ、優しく慰めてくれたひとりの男がいた。それは天才詩人ミュッセとの運命の出逢いだった。二人は間もなく激しい恋に落ちるが、子どものように彼女を慕い、激しく愛を求めるミュッセに疲れたサンドは、医師パジェッロの優しさに身を委ねてしまうのだった…
奔放で恋多き女性作家ジョルジュ・サンドと詩人ミュッセとの愛の葛藤を描いたドラマ。
10月17日(日)14時30分 @東京日仏学院 エスパス・イマージュ
入場無料(上映開始30分前より整理券を配布、15分前開場)
ビデオフォルム映画祭 ベスト・コレクション
プログラム企画者:ガブリエル・スシェール
1986年、クレルモン=フェランにて、ビデオアートの新しい創造のあり方を発見し続けているビデオフォルム映画祭を創設し、それ以降、同映画祭のディレクターを務める。1993年に季刊雑誌「テュルビュランス・ビデオ」を創刊、ヴィジュアルアートや新たなテクノロジーをめぐっての報告、考察を展開する一方、クレルモン=フェランでギャラリー「時間の芸術『ラール・ドュ・タン』」を開くなどの活躍をみせている。
ガブリエル・スシェールによるプレゼンテーション
10月28日(木)19時
@東京日仏学院 エスパス・イマージュ
会員:無料/一般:500円
プログラムは都合に変更されることがありますのでご了承ください。
ダイアログのある作品のみ、英語字幕が付く予定です。
協力:Heure Exquise! Distribution (www.heure-exquise.org) _________________ This one will know, how far I live on.
Dernière édition par Bluemonday le 04 Oct 2004 14:07; édité 1 fois |
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Bluemonday 4eme Dan
Inscrit le: 23 Mar 2004 Messages: 394 Points: 10765 Pays, Ville: Nishinomiya, Hyogo, Japan
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Posté le: 04 Oct 2004 13:33 Sujet du message: 東京日仏学院(Instutut franco-japonais à Tokyo)の10月の催し。(その2)
Ce message n'a pas encore été noté. |
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講演会関係
①ミッシェル・オンフレイ講演会「反逆者の政治:ある快楽主義的政治」
②ジャン=フランソワ・プジェ講演会 「ポール・リケとミディ運河」
③森洋子講演会:「シャボン玉の教訓と愉しみ -西洋と日本の図像を比較して-」
④ジョルジュ・サンド生誕二百年記念シンポジウム1 「ジョルジュ・サンドと芸術」
⑤ジョルジュ・サンド生誕二百年記念シンポジウム2 「ジョルジュ・サンドのイメージ:その過去と現在」
⑥【コルシカ・デー】 シャルル・ナポレオン講演会 「コルシカ:伝統と現代」 →「特別企画」のページへ
⑦【フランス大使館主催・日仏学際シンポジウム】 デジタルアート:ニューテクノロジー、創造、社会
①ミッシェル・オンフレイ講演会 「快楽主義的ポリティーク:反逆者のポリティーク」
10月6日(水)19時
@東京日仏学院 エスパス・イマージュ
同時通訳付き/入場無料
ミッシェル・オンフレイ
1983年から2002年までカーン高等学校で哲学を教え、その後カーン民衆大学を創立する。すでに日本で翻訳された「哲学者の食卓」(新評論刊/1998年) も含め、すでにFeeries anatomiques. Genealogies du corps faustien (グラッセ社刊/2003年)、Epiphanie de la separation : la peinture de Gilles Aillaud (ガリレー社刊/2004年) など20冊以上の著書があり、肉体は何ができるか、何において身体は哲学が偏愛する対象なのか、倫理的快楽主義と政治的アナーキズムの関係など、快楽主義の理論を展開する。
彼はまた無神論的な現代の倫理の表明に腐心し、1997年に刊行された「反逆者のポリティーク:抵抗と不服従の概論」(仮題)では政治的な方策を提示している。
ミッシェル・オンフレイHP
ミッシェル・オンフレイ 「哲学契約」(抄訳)
Citation: |
哲学契約
ミッチェル オンフレイ
パスカル エルビュー 訳
土台作り
1・あてもなくさまよう園
私は、斬新なエピクロスの園を望む。望むのは、城壁外の園である。定住した、閉じられた地理的な空間、囲いのある、門のある、位置を決定する事ができる園ではなくて、遊動の、携帯の、可動の、どこに行っても手元にある、いわゆる遊動の園を作り上げようとする。現実な効果が生まれる架空な園なのだ。言い換えれば、エラスムスの空想社会とラブレーのテレ―ム僧院とフーリエのファランステールの模範に従って、近く隔てて、俗世の外ではなくて、この世の中に暮らすために、エピクロスの学派の教えに従う暮らし方を切望する。私は、都市に入り込んで、抵抗、対立、アルタナティヴの生き方のために闘う功城兵器を想像して提案したいと思う。
だから、驚くにあたらないが、古典的な修史によって、倫理学と自然学について、エピクロスの学説も分かれば、彼の貧弱な体質について、詳しい情報も持てれば、テトラパルマコンについても舌戦すれば、いわゆる水を一杯とチーズの小さい壺を一個だけの放縦な御馳走についてもだらだら論説すれば、原子の重さに夢中になって、この問題を解決するため、哲学の研究者の一生を過ごそうとする人もあるが、エピクロスの園について、具体的な、確かな情報も、どこにも見つけられない。探してみても、ほとんどない。
伝説的な場所の跡を探して、アテネの北西を彷徨っていたある日、手に握った地図が案内した所についた時、エピクロスの園のかわりに教会が建っている汚い広場しかなかった。でたらめな地図だった。広場で子供達はがやがや小鳥のように騒がしく遊んでいる。道路に車は溢れる。大変な公害、一酸化炭素で黒く汚した染みだらけの壁、あちこち看板ががたがたになっためちゃくちゃの店、この景色に哲学の園の面影は、何も残っていなかった。ただ一つの考えだけがこの無惨な空間に漂ってきた。間違いなく、エピクロスは郊外で、中心から離れている、神々が住んでいるパルテノンとアクロポリスから、支配者が住んでいる、プラトンの影が浮かぶその神殿から、離れている場所で園を作り上げたのだ。
私は、エピクロスの園を、デェルーズの言うように、概念的な人物と見なす。この園は大人物だと思う。哲学への機会、哲学をする機会だ。この概念は哲学のいわゆる古典的なコンセプトと同じように、(ピタゴラスの数、プラトンのイデア、懐疑論者のエポケー〔判断保留・停止〕等)尊重すべきものだ。この園は立体になった哲学の所産だ。立体になった考え、立体になった体現だ。エピクロス学派の建物か概念的な家か、考えの住処。確かに、Malaparteのように、哲学者エピクロスは彼に似ている家に住んでいたような気がするだろう。アカデメイア、リュケイオン、アテイナの柱廊、キニクの広場(シノサルジュCynosarge:身軽な犬の広場)のように、この場所はここに居た人々に似ていたように。
理想的に、総ての園は始めて天国の位置を確定したチギリスとユーフラテスの地方に由来する。モーリタニアで、炎天の下、猛暑と熱風のような風でむんむんして、一日、砂漠の砂をあるいてから、脱水に近い状態で、やっとティルジッとのオアシスに入った時、この言葉が何と表すか体験した。小川の水の冷たさが身に染みた。内は椰子の木の緑の下に、影の涼しさの中、小川のささなみのせせらぎが聞こえる。外は、砂山から息苦しい熱気が上がる。内は、裸に清い湧き水に水浴びをする。粉のような橙色の砂を踏む。あちこち、地面に目玉のような光の斑が躍って、追いかけあう。かすかに、虫の音がする。ここは砂漠の正反対である隠れ家のような気がする。辛さと苦労を耐えた後、ここで、体の平静と、平穏を味わう。
明らかに、園はオアシスに由来する。駱駝の群れを連れて行って、砂漠を越えた隊商は水が湧き上がるその場所に着くと、恵美が与えられる甘美を味わうことは当然だ。ここで砂漠の猛烈な激しさの解毒薬が飲める。先ず、天国の形に現れる概念はオアシスから生じた。それから、園とあらゆるその他の理想的な共同体が天国から生まれた。あそこに、人間がこの世の後と裏をどの形で想像するかと可視的な、花と草木の模様を取り入れる縮図である、緑葉で作られた建築的な構造がいつも現れる。
2・アンチ・プラトンの国家
現実の、実際のエピクロスの庭園は跡を残さないで消えてしまった。あちこちに残っている断片的な情報は決して本とか記事とかに纏められた事がない。庭園について書かれた本に目を通しても、何も見つからない。勿論、メゾポタミャの系譜を再構成するし、神父の園について、修道院の庭園について、イギリス式とフランス式との対立について、十分の説明があるし、禅バージョンついても詳しいだが、哲学の立場から考えた庭園については一つの詳説もない。エピクロスについて、些細な事もない。カエサルの時代に、カンパーニャのピゾの別荘で暮らしたエピクロス学派の哲学者のフィロデムス・ド・ガダラについても、まったく触れられていない。エラスムスの家についても、言うまでもなく、ペトラルカの「場所」についても一言葉もない。
エピクロスの庭園の面積は?情報なし。何人、ここで住んでいて、通って、出入りしたか?同じく。くわしく、この空間でどういうふうに時間を過ごしたか?根拠なし。建物の構造、建物の建築様式、何軒、配置、図面、このことについても、手がかりがない。片鱗もないエピクロスの庭園の運命に悲鳴をあげたいほどのパラドクスがある。不合理的に、ルクレティウス自身は、紀元前1年で庭園遺跡に不動産投機の計画を立てたメッミュスをエピクロス派学に転向させるために、あの人に「モノの本性について」の高尚な詩を献呈した。分別の乏しい、あやしい詩人のルクレティウス。
しかし、珍しく、いくらかかったかまだ分かる。80ミナだった。想像しにくいが、同時代の同じ金額のかかるものに言い換えれば、80ミナで、兵士200人で艤装した三段櫂船を購入することができるそうだ。法外な、すごい金額のかかった哲学のための空間だった。エピクロスは個人資産がなかったから、弟子二人、レオンテウススとイドメネは計画を融資した。ありがたく、ありがたく。同じく、ピゾはヘルクラヌムのパピルスの別荘でフィロデムス・ド・ガダラを経済的に手伝った。周知の通り、文芸の愛好家と財政補助者として、マイケナはホラティウスとヴェルギリスを庇護した。
この庭園はアンチ・プラトンキョウワセイ国家のように働く。それに、歴史の流れを超えて、庭園と国家・共和制は概念的な人物として、影響を及ぼす。一方に、抵抗するミクロ共同社会があって、社会内に分離している社会がある。他方に、個性と感性と特徴性を餌として食い込んで、独自性が溺れてしまう共同体を作り上げる構造的な機械とリヴャイサンがある。エピクロスかプラトンか。まだ21世紀の時勢に合う選択なのだ
もっと詳しく言えば、『国家』の対話篇に、プラトンの求める政治的なシステムは、フランス語で共和制と翻訳されても、共和制ではない。同じく、「正義について」という副題に現れる「正義」は保証として使われた観念でしかない。なぜなら、禁欲的理性の哲学者として、目指すのは絶対、正義に基づいて作り上げた共和制ではない。望むのは、不正の、階級制度に基づく、全体主義的な君主制だ。この君主制には哲人王か王哲人かは一切の権限を行使し、生産者の階級はおとなしく財産を統治者の階級に提供する。真中に置かれた武士の階級は市民をこの現状に対して逆らうのに抑制して、反逆を防ぐ。全体主義政体の根本と模範としてのこのプラトンの政治的システムは、多かれ少なかれ、すべての統治システムが目指す理性の理想も提供する。
エピクロスは、友愛に基づく共同社会を提案する。哲学は、他人を統治する支配者にしか役立たない専用武器ではない。哲学は、自分を整えて抑えることをしようとする人間だけにあたえられるべきだ。他人に対する支配力を発揮するのではなくて、自分自身を作り上げる過程に対する力を発揮するのだ。自分自身を作り上げないと、共同社会が実現しない、存在しない。男子は女子と付き合うし、金持ちは貧しい人と暮らすし、若者は老人に付き合うし、市民はメトイコイ(居留外国人)と哲学をするし、自由な人間は奴隷と時間と空間を共有する。これほどに、絶対的な平等と絶対的な自由に基づく共同社会はないと思う。共和制には個人は共同体を経て存在する。エピクロスの庭園の中、共同社会は個人を経て、個人のために存在する。
3・哲学契約
アンチ・プラトンキョウワセイ国家の基礎には双務契約がある。この契約はいつでも、絶えずに、口頭で、暗黙の同意で、更新することができる。毎日、日常生活の日々の、言葉を交わさない継続のなかでも自動更新ぐらいのことも可能だ。いわゆる社会契約はでたらめな作り話しでかない。誰が、いつ、どこで、どういうふうに、我々各自、ある日、社会と契約を結んだか? だが、はるかに、その哲学契約は、認められる、具体的な基礎に基づきている。自分と自分との間と自分と社会との間に、個人建立と活動的な構築と自己変形に達するように、契約を結ぶだけで、十分だ。
哲学契約は哲学的な出会い、実存の帰依、意思的な決定、存在の一貫性への働き、それから、主体の出頭を前提とする。プラトンはこのシステムで個人を吸い込んで、消化してしまう。彼の膨大な機械は嘘と権威と服従と拘束と従順とを必要とする。女性と子供、弱者と詩人、無名の人と労働者、発育のわるい、体の不自由な人を圧迫する。エピクロスは自由な、同意している、陽気な性格と平静なしっかりした気質を作り上げるために約束で結まれている個性で共同社会を昇華する。
エピクロスの政治哲学は、高尚な意味で、三つの原則で結晶される。先ず、法そのものは絶対的には存在していないこと。法は結んだ契約に基づいて、相対的にしか存在していないこと。それから、自然法により、一人一人、互いに無駄な迷惑と損害を避けることに役立つことを承知すること。さらに、前もって、契約を結ばなかったら、損失と不正はあり得ない。この三本柱に基づいて、快楽主義的な社会共同体を作り上げることができる。この快楽主義的な社会共同体では、生きる喜びだけを追求しようとするし、不愉快と苦悩と苦痛をもたらすことを避ける、拒む、拒絶する。共通の企画を立てるために話し合う。ここで、言葉は嘘をつけるため、誘惑するため、ごまかすために使用されていない。言葉は、一緒に歩いてゆく道と方向を思い描いて、予想して、先を見通すにしか役立たない。目的は?生きる純粋な快楽という、この至高の満足感に達すること。
契約を結んでから、賢明さを無視したり、軽蔑したりする世界にも哲学者として、暮らすことは可能になるが、この環境に立ち向かって、哲学への取得者は保護方法を実行さぜるを得ないだろう。というには、あるエピクロス学派の共同計画を執行することを契約する人を選んで、この計画に同意できない、同意したくないから契約を結べない人を追放する。これしかない。追放された人にはこの計画に興味がない人もあれば、
人間関係の非行者もいる。あるまじき人間関係しか結ばない人間は、当然、締結することも、約束を守ることも、ひねていない計画を成功させることもできない。感情上の未成年とか、死の欲動で荒廃された人とか、精神的に散乱した人とか、感情の自食者と食人者とか、幸福と快楽とに不向きな人とか、自分のことを享楽できないから他人のことも享楽できない人とか。
エレク選ぶション事はエピクロス派学者の重大な、枢要な徳である友愛を作り上げる。友愛はに実際に与えるより、潜在的な可能性に秀でる。助長だ。力だ。受けと取りの両方は相互の享楽の価値をよく分かりあうと、忘れてしまった徳を再出現させて、働かせる。おとなしさ、気配り、優しさ、高潔さ、与えることの快楽、物を配ることの快楽。友愛は孤独を和らげる。友愛は共同社会を作り上げると、相互的に、共同社会は友愛を作り上げて、持続させる。共同社会を作り上げるために友愛に建築の構造的な役割を与えたのはエピクロスの立派な、高尚な努めだった。
4・城壁外の庭園
21世紀のエピクロス庭園は、そのまま、古代のものの模作としては、考えられない。一方、具体的に、エピクロスの時代の詳しい様式と形態も分からない。他方、一般的に言えば、精神と内容より、形式にこだわると、立派な考えは、消えてしまう。ある程度、それは自殺のようだ。今日では、エピクロス派学者として暮らす道はあるか。24世紀前に生まれた、老境にある賢人のポストモダンの弟子として、何考えるか、どう考えるか。哲学慰安、哲学共同社会、哲学存在などはどの形を取れるか。哲学学説の光輝が行き渡る一生は何か。
共同社会は一番危ない罠に陥られないように、グールー指導者が支配するセクトとならないように、地理的に閉じ囲まれていることと、空間的に突き止めた、位地を決定した場所に定住することを避けなければならない。可動の、移動しやすく、活動的な、絶えず動き回る、すなわち、遊動の構造にならなければならない。ある土地に深く根を下ろした共同社会に対して、目に見えない共同空間を推進しなければならない。快楽主義への意志のオーラ影響力で作り上げられた、携帯の、いつも手元にある、城壁外の庭園を!
ミクロ的抵抗のために、ミクロ社会は欠かせないものだ。エルンスト ブロッホが考えたように、空想的ではない、具体的なユートピアは必要だ。電力のように、目に見えない網で形成された、電力のように、エネルギは密度と効果が高い節と範囲を発生する高性能ユートピアは必要だ。言い換えれば、絡み合わせたリゾームの空間だ。口頭の関係、しぐさでの関係、姿勢、意味ありげな沈黙、契約を執行するための交流的なしぐさはすべて、絡み合う場所だ。代わる代わる、変貌の激しい場所だから、地図は作成できない。設計図の決定版もない。文字通り、静死(靜止)写真より活動写真だ。
他人に対して戦ったり、他人の意に背いて無視したりして、哲学的な生活を送るのは不可能だ。さらに、誰とでもいい、どうでもいい、構わないと言っても無理だ。始めに、深手をおわせられた、疎外された、粗い塊のような一生しかない。構成化によって、計画によって形相を与えられない一生だ。それから、実存的な計画の発見とこの計画から生まれる可能性によって変容された生涯を送る喜びを味わう。この生き方の醍醐味によき生活と正当な生活と充実した生活への、古代の追求を再発見する。ニーチェの描いた永却回帰が起ったら、(起らないだろうが、)いつくにもふたたびあ生れば、誰でも送りたい一生なのだ。
5・原子革命
知っている人は少ないが、ニーチェ自身も哲学を日常生活で実践し、具現する友愛研究室のような場所を切望した。刊行作品の中より見つけられないが、書簡の中にエピクロスへの憧れが認められる。サモスの哲学者が教える弟子は羨ましいと書いてある。弟子を支配する指導者ではなくて、弟子に何よりも自分の教えから独立になる方法を教える賢人へ憧れたニーチェの姿は現れる。解放しようと努める。自由にしようとする。決して仕上げた形であたえられない、いつも、絶えず、普請中の自由を習う。
エピクロスにはニーチェは非現代的な、時期外れの側面が好きだ。言い換えれば、時間を超えて、いつも時勢に合う場面。英雄的な哲学を発明するうまさ(英雄的だが、地味に、古代賢人のように)と素朴な哲学を発明するうまさ(コスモスと結び合う素朴だが、穏やかに、)を味わう。自分自身と自分自身との間に表現しがたい感情を作り上げる方法を見つけた。私は、それを見事に表現する、「自分に対する優しさ」と言うような言葉はフランソワ・ド・サルの「信心生活入門」に読んだ。本当に、これは、他人に対する可能な優しさの端初だ。
ニーチェはこの修道院の回廊を友人と共有しようと思っている。ここで、ポル・レーとルー・サロメと、研究と瞑想すること、本を書くこと、分け合う事と交し合うこと、哲学に生きるへの熱情で結ばれた共同生活を過ごすことをしたい。残念ながら、この名案は手紙一枚ビラに書いてある発想の段階に留まった。ゾロアスターの父は、妹の手紙に書いているように、この新しい「庭園」に教育者が自分自身教育する教育者学校を、自由大学を創設しようと思う。
だから、ポスト・モダンの歴史の流れの中で伝統的なパターンに基づく革命は不可能になった。消えて失せてしまった希望の代わりに、ドゥルースの言う個人の革命的な生成しか働かない。高陽を与え任務。政治的な反乱で変革を起こすのは無理になった。ミクロ毛細現象で変革を起こす道しかない。移住革命、点革命、細分革命、すなわち遊動革命になるはずが、この最小規模な革命には連鎖反応を誘導する力がこもっている。千里の提も蟻の穴。明日、また明日、起りそうな革命ではなくて、歴史の渦巻きに飛び込まないで済む革命ではなくて、一貫性がなくても済む革命ではなくて、いま、直ぐ、ここで起こす具体的な革命。ニーチェの追求した空間の中のように、絶えず中心が移動する革命。位地を決定する不可能なのに、局地の革命だ。社会の間主観性の生じる急節点に突き止める革命。目に見えない現象が目に見えなるように、パゾリニの「テオレマ」に現れる天使のように、この新型革命は普及する。明日絶対起れないことを待たないで、即座に起る。私は2002年に市民大学を創立した時に、この分子革命、いや、エピクロスに絶対捨てられない言葉で言うと、この原子革命の一つパターンを現そうと思った。
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Posté le: 04 Oct 2004 14:03 Sujet du message: ミッシェル・オンフレイ 「哲学契約」(抄訳)について
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【注釈】
一点注意していただきたいのですが、Pascal Hervieu氏が今回抄訳されたこのMichel Onfray氏の最新著作「le contrat philosophique」は出版社名や出版年月、翻訳の内容をみる限り、正しい原題は「La communauté philosophique -Manifeste pour l'Université populaire-」であるような気がします。よって、タイトルの翻訳も『哲学契約』ではなく『哲学共同体』がよろしいかと思います。
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Posté le: 04 Oct 2004 14:05 Sujet du message: 東京日仏学院(Instutut franco-japonais à Tokyo)の10月の催し。(その3)
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***ミッシェル・オンフレイ 「哲学契約」(抄訳)のつづき***
Citation: | 実行する
1・皆のためのエリート主義
アントワーヌ・ヴィテーズは、アヴィニョンの創立時期について見事に語ると、「皆のためのエリート主義」という表現を主張した。揺さぶったような直感を超えると、この撞着語法は的を射たような気がする。エリート主義と言ってこそ、選ばれた少数人、すぐれた人だけのために、秘教的なコミュニケーションを追求することを当然予想させる。皆のためにと言ってこそ、さあ、正反対に、公共的なコミュニケーションで、だれも排斥しないで、最大の普及を目指すことを頭に浮かんでくる。そう、この矛盾的表現を、どういうふに、具体化すればいいか。
簡単に言えば、一方譲らないで、いつも、一番レベールが高いのものを一番大勢の人に提案するという方法しかない。この高級な提供の中身は聴衆を尊重するべきものだ。もちろん、だれでも哲学を身につけようとすることと、だれがそれで得をすることは、別の問題だ。この場合には、耕すことと収穫することとの間に関係はない。一番大勢の人に一番優れたものを与えることは皆がこの質の高いものを手に入れることではない。頑張って見れば、そうしようと思えば、テコをいれて、チャンスを握れば、潜在的に可能になった。とりあえず、語源的な意味で、民主主義的な方法が生ずるアリストクラティックな(特権階級的な)結果だ。ここまで道を辿ろうと努めた一握りの人しか達成しない。チャンスを逃せば、自分にしかかかりようがない。
ヴィテーズの原則を哲学の教育に適用するために、革新的な教育方法を発明しなければならない。大学的でも、反大学的でもない。哲学喫茶的でも、反哲学喫茶でもない。向こうで、別のところで、よそに、違ったやり方で。どの取り組み方にも、仕事と研究の根拠と質的にいい所もあれば、限界もある。大学の教え方から、理論上に(そうなるはずだが)、授業の内容の素晴らしさと教師の授業準備の高いレベルと研究の結果発表と聴衆に向けの専用研究を取り入れよう。哲学喫茶から、自由に出席・欠席・参加すること、選抜も入学手続きもないこと、継続的な知識検証を行わないこと、要求される学力のレベルはないこと、ほんのすこし(シンボリック)の学費もない、完全に無償であることを取り入れよう。(ここに象徴がない、実質しかない)
大学の知的な動脈硬直化を避けよう。特に、くどく、機械的に、批評しないで、古典的な哲学史を繰り返して、教えないようにしよう。内容的に、革新的な視野を提供してみよう。正当化した内容で社会システムの再生産と、権威と階級的支配の正当化をする学識・知識の利用を拒絶しよう。さらに、哲学喫茶の悪い癖を避けよう。授業中、参加者の仕事は集団的精神療法に急変しないように。カタルシスを目指す即興と、ナルシシズムやノイローゼーを暴露する曲芸にならないように。できる限り。
2・市民大学について:第1幕 遍歴
私の要求している新しい教育方法を実現することができる場所は「市民大学」だ。古くて、新しい枠だ。100年前以上の古い話だが、それと同時に、最近の作り始めたばかリの新しい構造なのだ。歴史的に市民大学と言えば、直ぐドレフュス事件が頭に浮かんでくる。確かに、同時代のものだ。それは19世紀末の緊迫した社会情勢の中で生まれた。蔓延した反ユダヤ主義、深刻な社会問題、日々の階級闘争、強力なフランス社会主義、国際労働者連盟、ドイツ嫌いと言う背景、禍の高まり、戦争勃発の恐れ、好戦的な愛国主義と国家・民族主義、このような状況は二つのフランスの対立が激しくなり、市街暴動が広がる有害な社会情勢を引き起こす。
印刷工場に働くアナーキストの労働者のジョルジュ・デゥエルムは旗を揚げる。時代の言葉を使うと、市民大学はインテリに労働者階級に出会うために、創立された。インテリは当時作られた言葉で、ゾラの「われ弾劾す」との同時代のものだ。クレマンソーは演説に「知識の党」を厳しく批判した。市民大学(UP)には自分の活動、行為、運命の中心になるために勉強しようと望む労働者とやる気のある人々を啓蒙する務めが割り当てられた。けれども、その裏には最も大切な目的があった。直接普通選挙制度が到来しない内に、ある状況に健全な判断力と分別・識別能力を発揮して、賢明に選択できる市民を育てる優先的だった。
「百科全書」の世紀の啓蒙の伝統を受け継いでいるこの提唱の支持者は教養と知識と知性、思考能力と理性を指導する能力を磨けば磨くほど、向上すればするほど、一般的に、特に、政治的に、ばかばかしい、空想な思想を弁護し、有害なイデオロギーに隷従する可能性の確率は低くなると、思い切って信じている。勉強すること、理解すること、把握すること、見分けること、それは、愛国主義、国家主義、人種偏見、反ユダヤ主義、外国人偏見、その他の反乱を扇動する機会に対する防衛ラインを立てるチャンスだ。彼らの考える通りだ。
殆ど名前を忘れ去られた、当時の大勢のインテリのスターだけではなくて、今もよく知られている著名人は(アナトール・フランス、アラン、ポル・ヴァレリ、シャルル・ペギー)人民の聴衆に無償授業をする。1905年から毎月の第三水曜日、エリー・フォールは美術講演会を開く。講演で見せた写真と読んだテキストをまとめた本の「世界美術史」は大ロングセラーになった。
無償するか僅かな参加費をもらうかのような財政問題と、宗教党が市民大学の授業で主張を掲げることを許してもらうかどうかの方法論と、政治色を濃くするか、政教分離の論争に飛び込むかかとのイデオロギーの疑問は運動を内部から蝕んだ。追放、除名、排斥が相次いでいる。団体の日常生活にありがちな駆け引きだ。素晴らしいアイデアの堕落の兆しが見えてくる。
第一世界大戦の直前に、無償で授けてきた知識を基礎とする自己仕上げによって個人を解放するという根本原則を破って、抜け殻になって、市民大学運動はまるで異なっている方向性を選んで、市民が集まって、ただ付き合って、交際するところ、一種のプロレタリア向きの組合組織になる。公共住宅の問題、アルコール中毒に対する予防衛生、労働者向きの休暇、スポーツとレジャー、子供の教育問題を引き受けるこの市民大学は、団体として、市民的と言えるが、もう、啓蒙により解放を目的とする大学的ではなくなった。
3・市民大学について:第2幕 現代歴史
3年前から、カーンに誠実な友達と、市民大学のもっと大学的なバージョンを創立した時、ドレフュス事件の影響を直接に受けた根本理想を復活させようと思った。ドレフュス大差事件によって二分されたフランスの対立と、反ユダヤ主義が蔓延した19世紀末と、20世紀末との間に共通点が非常に多かったような気がした。症状の診断をしてみよう:社会の災害と国家主義とポピュリスムへの非難。人種偏見により大勢を犠牲にすること。反ユダヤ主義とマグレブ人に対する外国人嫌い。人民の状況について感心して、人民に気を配ろうとする人に直ぐ「ポピュリスト」のレッテルを貼られたほどの「民衆」の忘却。ヤクザっぽいの秘密組織のように働き、左翼の希望を砕いたミッテラン主義が引き起こした政治的な絶望。不平を一定方向に導いて、乗り切る可能性を作るマルクス主義の訴える大理想、唱える論争とディスクールの崩壊。購買力が低下するだけではなくて、感情生活、性生活、知的生活の水準も劣悪化する、全面化した貧困化。結果は発作だ。法律的に追い詰められて、政治的に信仰も道義もなくて、道徳的にでたらめで、確実に極右派の反議会主義団体の継続者の候補者は大統領選挙の2回目の投票に参加した。
インテリの世界はこの痛ましい貧困に対して、どう反応するか?Quid?クイド。リベラリスムのイデオロギーを弁護する連中(右派か左派かどうでもいい、一緒だ)は理論的に支持するシステムと理想の具体的な結果を、公然と、はっきり、臆面もなく擁護する立場がない。だから、リベラリズムの伝統を唱えて、「アメリカ民主政治」をくどく引き合いに出す。だからアロンを再評価して、「やはり、サルトルに対して、彼は、正しかった」と主張する。最後に、アメリカを支持する。(省略)。公然と嘘をつける時にも、非戦闘員の皆殺しをする時にも、民主主義と人権を楯に取って被占領国で人間を拷問にかける時にも、この連中はアメリカを支持する。本、記事、発言、いつでも、どこでも、このインテリはアメリカにゴージャスな花束を贈る
どうすればいい。理論的に弁護する主義の結果を公然と擁護して背徳にふけないようにこのインテリたちは撤退して逃げ場を探して、手を汚さない貧困を攻撃する。事情に応じて、ファシズムの復帰について長々と弁じたてたり、禍の高まりについて閑談したり、暴動の扇動者としてヴァロアとプルードンを引用したり、フランスのイデオロギーを非難したりするが、決して「世界の貧困」の中にブルデューとその仲間のするように極右派に訴える系譜を再構成してみない。このインテリには手を汚す、汚い貧困、庶民の心配の種と不幸、本を買って読むチャンスが殆どない弱者と無名の足軽に対する軽蔑、この貧困は別の銀河系に存在する。目の前に、暮らしている社会で、政治のサーボタージュと政治的な無責任無関心と投票の分散とネオーファシズムの活発を起こすのに。
ボスニアについて、「どうぞ、何枚でもあるぞ」。コーランの学校のタリバンとアフニスタンとベン・ラデンについて、四方八方で発言の花火を放つ。ワッショイお練りを練る。チェチェンについて、うずたかく在庫あり。ルワンダについて、同じく。9月11日のマンハッタンについて、崩れそうな本棚、唾の津波で襲われるほど、新聞紙の何トンか、やかましく、口説く、彼らミサのレントウ連?を唱える顔のピクセル化。イスラムのテロ組織について、本屋さんがどこに整理するか分からなくなるほど。ぴかぴか貧困、貴貧困はリスクと責任を取らないで大戦前の糊付けの燕尾服を身につけて,身を装うように使いやすいものだ。
手を汚す貧困は?引き受けると、感心すると、デマゴギーだと、ポピュリスムだとの罪状は明確だ。有罪判決を下される。執行猶予なし。新しく、今日の「労働者の条件」を書けるシモン・ヴェイルはどこにいるか。ブリュエ・アン・アルトワの労働貧困についての考えのようなテキストを書ける、新サルトルはいるか。社会保険を給付されないマグレブの就労者の貧困を糾弾する、新しいカミュは出ておいで。今のところ、思い切って、同じテーマについて、自分の考えを本に任せる人は、直ぐ手を汚さない貧困の御馳走をするリベラリスム派のインテリの非難を浴びる。ペンを握って、「第1:主権主義に奉仕する人だ、第2:だから、国家主義に奉仕する、第3:結論は極右派に奉仕するのだ」と主張する。以上だ。もうどうする事もできない。ピエール・ブルデュがやった時、頭からゴーゴー罵倒された。憎みの雨あられで打たれた。
それで、こうならないように、やるべきことをやらなかった時、国民戦線を支持する有権者を嫌悪するのは簡単だ。いや、全くどうにもしようがなく、飛びついて(言葉は正しいと思う、一気に)扇動政治家とポピュリストに身を任せる国民戦前を選ぶべきことが起るように、やるべきことをすべてやった時、自分も市場の数多くの特権を享受する時、「共和国・民主主義・人権」共和国・民主主義・人権によって、もっと低い給料をもらうためにもっと長く、最低の条件に、働かさせてもらうのに、頭に大文字をつけるこの三体の偶像を崇拝する義務づけを強調して、リべラリズムの痛手を受けて抵抗出来ない大勢の同国人の多数をホットさせるのは簡単だ。嫌悪するからこそ、ホットらかすからこそ、手を汚す、汚い貧困から汚い対策が生ずる。この対策を防がない一本少しいでも一ことは、それを弁護すると同じだ。
4・協働知識人
ピエール・ブルデュは、「向かい火」に市民に現代社会の複雑な問題を理解するために学問的な道具を与える共同的に働く専門家のグループ(協働知識人)の創立に呼びかけた。市民大学は、お互いに、相違と対立が知識的に、精神的に糧になる、お互いに、専門知識の内容を補完し合う個人が出会う組織を作り上げることによって、この可能性を現す。個人らと、個人と個人との間の関係しかないことを信じることを根拠とする個人主義は利己主義ではない。モナドとモナドとの間に結ばれた契約は、かならず、違った風に、別な風に考えるための活動的ないろいろな網を組み上げる。独りより、よく考えることではなくて、新機軸を出すためのことだ。伝統的な講義に基づく古典式の大学は、教える人と習う人との間に対称、対話、相互作用を引き起こさない組織だ。
(省略)
団体は推進力と交換相互作用を前提とする。声をかけて質問する活動的なパターンで、或いは、自分の糧とするように、自分の考えを涵養するように他人の言葉と発言を考慮する沈黙パターンで、発言する人と聴く人との間に、聴衆とアニメーターとの間に、参加者との間にも交換が行う。この共同社会はエピクロス派のモデルを選択した。すなわち、自由に同意した個人しか契約を結ばないこと、参加するか参加しないかを自由に選択すること、公開自由対決と論争に基づいて学説を評価して、分析すること、理論的知識を実用的な効果・結果を引き起こす機会として、考察すること。
5・個人に帰ること
共同の全体解決と共同体的全体解決の崩壊の後、個人と選択的なミクロ社会には抵抗する期待がかかっている。啓蒙前衛派、すなわち、プロレタリアーの働きにより、革命的社会が成立する可能性を信じる人は、今現在、誰もいない。この変動モデルは失敗した。それはよかった。専断的な政体の過度期がながびいて決定的になったことは世間の周知の事実だ。市民大学の観点はマルクス流の革命的ではなくて、絶対自由主義的なのだ。(市民大学が目指すのは、マルクス流の革命的過程の実行ではなくて、絶対自由主義的な過程の実践だ。)市民大学は具体的に、自由になる可能性と個人的な解放の機会を作り上げる。輝かしい、至上の、太陽のような個人を仕上げる過程だけ、革命的だからだ。
(省略)
市民大学はそのミクロ抵抗の研究室のように働く。社会のマイナスの流束を見つけて、見分ける。行為者として、伝播主体にならない。回路を遮断して、抵抗して、絶縁体になる。リベラリスム、資本主義、どちらもプラトンのイデアではない。資本主義的な主体があり。リベラル主義的な状況があり。この闇の力を伝達するベルトのように行動する個人がいる。流束を遮断したり、増大したりする機会がある。イデアでない。悪とは?悪は存在しない。しかし、悪が具現する状況がある。少なくとも、具体的な原因の結果であるこの状況が実現しないように行為しよう。
Michel Onfray 「le contrat philosophique」(extraits)
Editions Galilee (2004)
Traduction : Pascal Hervieu
Remerciements tout particulier a Monsieur le professeur Tsukahara qui a bien voulu relire la traduction.
「哲学契約」 (抄訳)
ミッチェル オンフレイ 著
ガリレイ出版 (2004年)
パスカル エルビュー 訳
お忙しいのなか、原本を読んで、間違ったところを訂正していただいた塚原先生に心から御礼を申し上げます。
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大中一彌(日本学術振興会・特別研究員)との対談あり
関連催し
10月7日(木)18時
ピエール・ブルデュー連続記念公演 会場:日仏会館
10月8日(金)18時
カーン民衆大学に関する講演 会場:東京大学教養学部(駒場:419番教室)
②ジャン=フランソワ・プジェ講演会 「ポール・リケとミディ運河」
10月7日(木)19時
@東京日仏学院 エスパス・イマージュ
同時通訳付き/入場無料
ポール・リケ(1604-80)とミディ運河
ポール・リケ、その名が歴史に残るのは、同時代の仏王アンリ4世、ルイ13、14世の、いや、それにもましてその時々の宰相、即ちシュルリー、リシュリュー、コルベールらの野望の為せる業といえる。歴史家の指摘する「ヨーロッパにおけるフランスの覇権」を強く追い求めたのが三人の宰相に通ずるところだった。
公証人の息子として生まれ、『塩税家』(悪名高い塩税徴収人)を生業とし、裕福で知的なブルジョワ階層に属していたポール・リケ。望みはといえば、王からの命であり、貴族の称号だ。
当時の国際政治に眼をやれば、イザベル女王率いるカトリック・スペインが1492年に新大陸を発見。以来、欧州随一の大国としてわが世の春を謳歌していた。ジブラルタル海峡を確保し、他国の生殺与奪の権をも握っていた。この地理的要衝を迂回する方法は?回避する術は?唯一の答え、それが大西洋と地中海を結ぶ運河だった…
『太陽王』ルイ14世の治世、リシュリューの夢はついにかなう。同時にそれは、リケの頭脳、根気、そして財力の賜物でもあったのだ。
1667年から81年にかけ、12000人もの工夫が地を穿ち杭を打ち、類例のない工事に取り掛かる。運河の完成まであと一年、だがしかし、リケは破産し、死を迎える…
時は下り1996年、ユネスコ指定の世界遺産に選ばれたミディ運河。フランスの栄華を今に伝える比類なき建造物である。
③森洋子(明治大学教授)講演会:「シャボン玉の教訓と愉しみ -西洋と日本の図像を比較して-」
10月14日(木)19時
@東京日仏学院 エスパス・イマージュ
同時通訳付き/入場無料
ケルン派「シャボン玉を吹くプットー」
1530年頃、ステンドグラス
ケルン、シュヌットゲン美術館
シャボン玉は子供の頃の懐かしい遊びであった。壊れてもまた作る愉しみは忘れられない。しかし西洋では古代ローマ時代から「人間は泡沫なり」という格言が知られ、ルネサンス時代の石鹸の普及とともに、この格言はシャボン玉で表現されるようになった。こうして絵画の歴史ではシャボン玉がさまざまな寓意のために描かれるようになる。人生のはかなさ、美の移ろいやすさ、名声・冨・権力のむなしさなど。しかし日本でのシャボン玉は西洋とはまったく異なる。とくに江戸時代では光り輝く新年の玉、善玉/悪玉の玉、暦の月の玉、それがシャボン玉であった。(森洋子)
ロラン・フレクスナーデッサン展開催を記念してこの講演会を行う。
④ジョルジュ・サンド生誕二百年記念シンポジウム -ジョルジュ・サンドの20、21世紀への遺産-
「ジョルジュ・サンドと芸術」
10月16日(土)17時
@東京日仏学院 エスパス・イマージュ
同時通訳付き/入場無料
主催:日本ジョルジュ・サンド研究会
パネラー
ニコル・サヴィ:ジャック・ドゥーセ文学図書館担当官
アンヌ・マリ・バロン:十九世紀映画論専門家・バルザック記念館副館長
ニコル・サヴィは、サンドの人生に深い関わりをもった芸術と芸術家たちについて、またアンヌ・マリ・バロンは、サンドの生涯を題材として制作された現代映画について語る。
日仏音楽友の会(AFJAM):「ジョルジュ・サンド生誕二百周年記念コンサート」
10月16日(土)13時
ジョルジュ・サンド関連映画上映
『青い旋律』:10月16日(土)14時30分
⑤ジョルジュ・サンド生誕二百年記念シンポジウム -ジョルジュ・サンドの20、21世紀への遺産-
「ジョルジュ・サンドのイメージ - その過去と現在」
10月17日(日)16時30分
@東京日仏学院 エスパス・イマージュ
同時通訳付き/入場無料
主催:日本ジョルジュ・サンド研究会
パネラー
フランソワーズ・ギュイヨン:アムステルダム大学名誉教授
ジョゼ・ルイ・ディアズ:パリ第七大学教授
ニコル・サヴィ:エックサンプロヴァンス大学教授
ブリュノ・ヴィアール:エックサンプロヴァンス大学教授
持田明子:九州産業大学教授
西尾治子:慶応義塾大学講師
ほか
ジョルジュ・サンドは多くの著名人や世界の人々に愛され評価されたが、その作品は以外と知られていない。二世紀にわたる作品の拒絶と受容の歴史を概観し、その理由を探ると同時にサンドの現代像の神髄に迫る。
日仏音楽友の会(AFJAM):「ジョルジュ・サンド生誕二百周年記念コンサート」
10月17日(日)13時
ジョルジュ・サンド関連映画上映
『年下の人』:10月17日(日)14時30分 _________________ This one will know, how far I live on.
Dernière édition par Bluemonday le 04 Oct 2004 14:39; édité 2 fois |
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Bluemonday 4eme Dan
Inscrit le: 23 Mar 2004 Messages: 394 Points: 10765 Pays, Ville: Nishinomiya, Hyogo, Japan
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Posté le: 04 Oct 2004 14:06 Sujet du message: 東京日仏学院(Instutut franco-japonais à Tokyo)の10月の催し。(その4)
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⑥特別企画:コルシカ・デー
シャルル・ナポレオン講演会 「コルシカ:伝統と現代」
2004年10月22日(金)18時30分
@東京日仏学院エスパス・イマージュ
入場無料/同時通訳付
司会:長谷川秀樹(千葉大学助手)
シャルル・ナポレオン
1950年生まれ。経済学博士(パリ第一大学)。フランス財務省およびDATAR(フランス国土整備庁)で重職をこなし、クレディリヨネ銀行の役員等企業重役などもつとめるかたわら、ミッテラン政権では地方分権政策に携わる。のちにコルシカ島のアジャクシオ市助役に選ばれ、観光行政を担当。著作も幾つかあり、島の文化社会活動にも深く関わる。ボナパルトとの関係ではナポレオンの弟ジェロームの末裔に当たる。この講演会は、10月22日と23日に開催されるコルシカデーの一環として行われる。
特別企画:コルシカ・デー
スルディァンティ:コルシカの「心の声」
2004年10月23日(土)
開場:18時30分/開演:19時
@東京日仏学院エスパスイマージュ
当日:2500円
前売り、東京日仏学院会員:2000円
お問い合せ:東京日仏学院(03-5261-3933)
スルディァンティ(I Surghjenti)
ギ・カナレーリ、パスカル・モランディーニ、ジャン=ポール・マンジョン、ジャン=ノエル・プロフィーヅィの4人で構成されるコルシカの中堅ポリフォニーグループ。1979年文化団体形式で結成。Surghjentiとは「水源」を意味するコルシカ語。すべてのメンバーがコルシカ南部出身であるため、歌詞はほとんどすべてが南部方言で書かれている。海外公演も多い。なお、2002年に日本で公開されたフランス映画『父よ(Mon pere)』(ジョゼ・ジョヴァンニ監督)では主題歌および挿入歌を歌っている。現在までにCD9タイトルをリリース。最新CDは2003年のOrma.
また、今回はこのグループに尺八琴古流榎本流三代目榎本秀水が特別ゲストとして一部出演する。
スルディァンティ公式HP
協力:日本コルシカ協会
⑦【フランス大使館主催・日仏学際シンポジウム】 デジタルアート:ニューテクノロジー、創造、社会
10月10日(日)~13日(水)
@金沢21世紀美術館、日本科学未来館、慶應義塾大学、NTTインタ-コミュニケ-ションセンタ-
同時通訳付
主催:フランス大使館科学技術部
お問い合せ:03-5420-8883
私たちは今、ユビキタスネットワ-ク社会の幕開けと変化に富んだのデジタル映像の時代に生きています。コンピュ-タや情報技術により、映像と音響の表現や利用方法が大幅に変化しました。コンピュ-タゲ-ムのめざましい進歩は、ヴァ-チャルの世界を日常的なものにし、デジタルCGは、見る者を複合的な現実へと誘惑し、アニメ/漫画によって描かれた未来社会は、より現実に近いものとなって来ています。
コンテンポラリ-ア-トの世界では、コンピュ-タにより、従来の手法から変化を遂げ、観客とより直接的でインタラクティヴな関係が持てるようになりました。新しい認識方法が、様々なデジタルユビキタスイメ-ジと共に出現し、ア-トと科学技術との境界を越えようとしています。
このシンポジウムは、学際的なフォ-ラムとして、芸術家、科学者、哲学者がそれぞれの立場から意見を交換し、新しいコンセプチュアルな基盤を定義していくというものです。
10月10日(日)10時~12時 @金沢21世紀美術館
『F-MEDIA:フランス人ア-ティストとニュ-メディア』
パネリスト:マチュ-・ブリアン、フィリップ・パレノ、藤幡正樹(以上ア-ティスト)、フランソワ・ロッシュ(ア-ティスト/建築家)、ニコラ・ブリオ(パレ・ド・ト-キョ-現代創造センタ-館長)
モデレ-タ-:クリスティ-ヌ・ビュシ=グリュクスマン(パリ第8大学名誉教授、芸術・哲学)
10月11日(月・祝) @日本科学未来館7FみらいCANホ-ル
『コンピュ-タとクリエイティヴィティ』(13時30分~15時)
パネリスト:コルコズ、フィリップ・パレノ、藤幡正樹(以上ア-ティスト)、ステファン・ナトキン(国立工芸技術院教授/国立インタラクティヴ・メディア学校)、中津良平(関西学院大学教授、情報学)
『デジタル・ユ-トピア』(15時30分~17時)
パネリスト:草原真知子(早稲田大学教授、デジタルア-ト・文化)、デヴィッド・エリオット(森美術館、館長)、フランソワ・ロッシュ(建築家/ア-ティスト)、クリスティ-ヌ・ビュシ=グリュクスマン(パリ第8大学名誉教授、芸術・哲学)、徳田英幸(慶應義塾大学教授、ユビキタスコンピュ-ティング)
10月12日(火) @慶應義塾大学三田キャンパス 東館6F G-SECラボ
『ニュ-メディアの美学』(13時30分~15時30分)
パネリスト:ニコラ・ブリオ(パレ・ド・ト-キョ-現代創造センタ-館長)、アンヌ=マリ-・デュゲ(パリ第1大学教授、芸術・哲学)、ジャン=ピエ-ル・バルプ(パリ第8大学教授、デジタル文学)、ドゥ・ジェンジュン(ア-ティスト)、石田英敬(東京大学教授、哲学)
『認識科学とヴァ-チャルイメ-ジ』(16時~18時)
パネリスト:ダニエル・アンドレ-ル(パリ高等師範学校教授、認識科学)、茂木健一郎(ソニ-コンピュ-タサイエンス研究所、認識科学)、廣瀬通孝(東京大学教授、バ-チャル・リアリティ)、おおもりたかひで(慶應義塾大学教授、心理学)、渡辺茂(慶應義塾大学教授、心理学)、岡田光弘(慶應義塾大学教授、哲学)
10月13日(水) @NTTインタ-コミュニケ-ションセンタ-(ICC)
『SIG-SOUND:コンピュ-タと音楽』(14時~17時30分)
パネリスト:ジェラ-ル・アサイヤグ(音響音楽研究所、音楽情報学)、田中能(ミュ-ジシャン、ソニ-コンピュ-タサイエンス研究所、パリ)、マチュ-・ブリアン(ア-ティスト)、オ・ラム(ミュ-ジシャン/DJ)、久保田晃弘(多摩美術大学教授、音楽学/ミュ-ジシャン)、クリストフ・シャルル(武蔵野美術大学教授、ミュ-ジシャン)、三輪眞弘(情報科学芸術大学院大学教授、ア-ティスト)
『ライヴ・パフォ-マンス』(18時~21時)
田中能、久保田晃弘+クリストフ・シャルル、オ・ラム
***************芸術、学術の秋をご満喫下さい。以上。*************** _________________ This one will know, how far I live on. |
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